著者・出版社情報
著者: L・ランダル・レイ(L. Randall Wray)
アメリカの経済学者で、現代貨幣理論(MMT)の主要な提唱者の一人。バード大学教授およびレヴィ経済研究所の上級研究員を務める。ワシントン大学セントルイス校で修士号と博士号を取得し、在学中に著名な経済学者ハイマン・ミンスキーに師事した経歴を持つ。ミンスキーの金融不安定性仮説から強い影響を受け、これをMMTの理論的基盤の一部として発展させた。ポスト・ケインズ派経済学の流れを汲み、1990年代からステファニー・ケルトン、ビル・ミッチェル、ウォーレン・モズラーらと共にMMTの理論体系を構築してきた。特に国定貨幣論(「租税が貨幣を動かす」)の現代的展開や、就業保証プログラム(JG)の提唱において重要な貢献をしている。これまでに『Understanding Modern Money』(1998年)、『Modern Money Theory』(2012年、本書の原著)など多数の著書を執筆。また、世界各国での講演活動を通じてMMTの普及にも尽力している。
出版社: 東洋経済新報社
1895年創業の老舗経済出版社。経済・経営・ビジネス分野の専門書や実用書を中心に幅広い出版活動を展開している。『週刊東洋経済』の発行元としても知られる。海外の重要な経済書の翻訳出版にも積極的に取り組んでおり、ノーベル経済学賞受賞者の著作や先端的な経済理論に関する書籍を多数世に送り出している。MMTについても本書以外に、ステファニー・ケルトンの『赤字の神話』など関連書籍を出版し、日本におけるMMT理解の普及に貢献している。経済界や政策立案者にも影響力を持つ信頼性の高い専門出版社としての地位を確立している。
翻訳者: 島倉原(しまくら はじめ)
経済評論家。MMT日本語訳の第一人者として活躍。複雑な経済理論を分かりやすく伝える翻訳スタイルに定評がある。本書の翻訳にあたっては、専門用語の適切な日本語化や、日本の経済状況に即した解説の追加など、日本の読者に理解しやすい工夫を凝らしている。また、訳者あとがきでは、日本経済へのMMT適用可能性についても独自の見解を示している。翻訳以外にも、各種メディアでのMMT解説や講演活動を通じて、日本におけるMMT理解の裾野を広げる活動を精力的に行っている。
出版年: 原著2015年、日本語版2019年
ページ数: 560ページ
価格: 3,800円+税
日本語版特徴: 日本語版には、中野剛志氏(京都大学)と松尾匡氏(立命館大学)による解説が特別に収録されている。両氏はそれぞれの立場からMMTの理論的意義や日本経済への適用可能性について論じており、日本の文脈でMMTを理解する上で貴重な視点を提供している。これにより、単なる翻訳書を超えた、日本の読者のための独自の付加価値を持つ一冊となっている。
概要
『MMT現代貨幣理論入門』は、近年経済学界で大きな注目と議論を集めている現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)の基本的な考え方から応用まで、その主要な提唱者の一人であるL・ランダル・レイが包括的に解説した書籍である。本書は、主流派経済学(新古典派やニュー・ケインジアン)に対するオルタナティブな経済理論として、特に財政政策、金融政策、雇用政策に関する新たな視座を提供している。
MMTの中核的主張は、「自国通貨を発行できる主権国家(日本、アメリカ、イギリスなど)は、財政的な制約を本質的に受けない」というものだ。こうした政府が自国通貨で支出する際、実質的な制約となるのは「資金調達」ではなく「インフレーション」である。つまり、政府支出の制約は「お金がない」ことではなく「実物資源(労働力や原材料など)の利用可能性」なのだ。
本書の構成は、序章と全10章からなる。序章では、MMTが解決しようとする問題意識と従来の経済理論との違いが概説される。第1章から第3章では、貨幣の本質と起源、通貨発行者と通貨使用者の根本的な違い、主権通貨制度の特性などが詳述される。第4章から第6章では、マクロ会計と部門間収支の関係、財政赤字と公的債務の本質、中央銀行と財務省の連携などが解説される。第7章から第10章では、失業問題とインフレ、就業保証プログラム(JG)の提案、国際通貨と為替レート、そして政策実施上の政治的課題などが論じられる。日本語版には、中野剛志氏と松尾匡氏による解説も付されており、日本の文脈でMMTを捉え直す視点も提供されている。
本書ではまず、貨幣の本質についての独自の見解が示される。従来の経済学では、貨幣は物々交換の不便を解消するために自然発生的に生まれたとする「商品貨幣論」が主流だった。しかしMMTは、貨幣は本質的に「債権・債務関係」を表す社会的構築物であり、特に現代の不換紙幣は「政府の負債証書(IOU)」であると捉える。そして、こうした本来価値のない紙切れが受け入れられる根本的な理由は、政府がその通貨での納税を義務付けているからだ(「租税駆動貨幣論」)。MMTはこの主張を裏付けるために、貨幣の歴史的起源に関する研究や、人類学的知見も参照している。
次に、政府支出と徴税の関係性の再定義が行われる。伝統的な見方では「政府は税金を集めてそれを支出する」と考えられてきたが、MMTは「政府はまず支出し、その後に徴税する」という逆の因果関係を主張する。つまり、論理的・歴史的に見れば、政府の支出が先に存在し、それによって民間に流通した通貨が税金として還流するのだ。したがって、政府は自国通貨での支出のために「財源」を事前に確保する必要はない。現代の電子マネーシステムにおいては、政府支出は基本的にキーボード入力(キーストローク)によって行われ、中央銀行の口座に数字を入力するだけで支出が可能になるという運用上の現実も、この主張を裏付けている。
さらに、本書では財政赤字と公的債務に関する新たな解釈が示される。MMTによれば、「政府部門の赤字」は「非政府部門(民間と海外)の黒字」と必然的に等しくなる(部門別収支バランス)。したがって、政府の財政赤字は、民間の純貯蓄(純金融資産)の源泉となる。また、自国通貨建ての国債を発行する主権国家は、技術的には常に債務返済能力を持つため、非自発的なデフォルト(債務不履行)に陥ることはない。MMTは、財政黒字が必ずしも「良いこと」ではなく、むしろ民間部門から純金融資産を奪うことになると主張する。歴史的に見ても、米国で政府が財政黒字を達成した直後に不況や恐慌が発生する傾向があることが、この主張を裏付けるとされる。
本書の後半では、こうした理論的基盤に基づく政策提言が展開される。MMTは特に「就業保証プログラム(Job Guarantee)」を重視する。これは、働く意思と能力があるにもかかわらず民間で職を見つけられない全ての人々に、政府が最低賃金での雇用機会を提供する制度だ。JGは完全雇用を達成し、自動的な景気安定化装置として機能し、賃金構造の底辺に賃金アンカーを設けることでインフレ抑制にも貢献するとされる。さらに、単なる所得保障と異なり、有意義な仕事を通じた社会参加や技能開発の機会を提供することで、社会的包摂にも貢献するとされる。
本書はまた、インフレーションと完全雇用の両立可能性についても独自の見解を示す。MMTによれば、インフレは総需要が経済の実物的な供給能力を超えたときに発生する現象であり、単なる「貨幣量の増加」が直接的な原因ではない。完全雇用とインフレ抑制は両立不可能というわけではなく、適切な制度設計(JGなど)と需要管理政策(財政政策)によって、両者の同時達成は可能だとMMTは主張する。これは、失業率が低すぎるとインフレが加速するとするインフレ非加速的失業率(NAIRU)の概念に異議を唱えるものだ。
本書の特徴は、理論的な説明だけでなく、実際の政府支出や中央銀行のオペレーションの仕組みに関する詳細な記述に重点を置いている点だ。MMTの特徴の一つは、抽象的な数理モデルよりも、会計上の恒等式や実際の金融取引の流れを重視する点にある。これにより、経済理論が現実の運用上のプロセスとどのように整合するか(あるいは整合しないか)を明らかにしている。
「入門」と銘打っているものの、その内容は経済学の予備知識がない読者にとっては難解な部分もある。特に銀行準備、中央銀行のバランスシート、国債オペレーションなどの説明は、かなり専門的だ。一方で、MMTの基本的な考え方から応用まで包括的に解説した基本文献として、「バイブル」的な位置づけを持つ書籍となっている。MMTに関心を持つ読者が、より平易な入門書(ステファニー・ケルトンの『赤字の神話』など)と併読することで、理解を深めるのに適した一冊だろう。
活用法
経済ニュースの読み解き方を刷新する
本書を読み込むことで、日々の経済ニュースやメディア報道を全く新しい視点から読み解くことができるようになる。例えば、「政府の借金が○○兆円に達した」「財政再建が必要」「プライマリーバランスの回復を」といったフレーズをよく目にするが、MMTの視点からは、こうした言説の前提条件自体を疑う必要がある。
具体的には、財政赤字や国の借金に関する報道に接した際に、以下のような問いを立てることで、より批判的な読解が可能になる:
・この報道は、政府財政を家計と同列に扱っていないか?
・「借金返済の財源」という概念自体が、自国通貨発行国には当てはまらないのではないか?
・問題とされている「借金」は、誰の視点から見た「借金」なのか?(民間部門から見れば「資産」)
・インフレの原因を単純に「通貨量の増加」に求めていないか?
・完全雇用とインフレ抑制が両立不可能という前提に立っていないか?
例えば、「日本の公的債務はGDP比で200%を超え、先進国最悪のレベルだ」という報道を目にした場合、MMTの視点からは「自国通貨建て債務である以上、日本政府には常に返済能力があり、問題は債務の大きさではなく、その経済的影響(インフレなど)にある」と読み替えることができる。また、「国債の借換えが難しくなる」「財政破綻する」といった警告についても、「主権通貨国である日本が自国通貨建て国債で技術的なデフォルトに陥ることはなく、真の問題は実物資源の配分にある」と捉え直すことができる。
消費税増税に関する議論も、MMTの視点から新たな読み解きが可能だ。従来の議論では「社会保障の財源確保のため」と説明されるが、MMTの視点からは「総需要抑制のため(インフレ対策)」あるいは「所得再分配」という観点から評価すべきということになる。税の主目的は「政府支出の財源確保」ではなく「インフレ抑制」「所得再分配」「特定活動の奨励・抑制」にあるとMMTは主張するからだ。
金融政策に関するニュースを読む際にも、「中央銀行は貨幣供給量を直接コントロールしているのではなく、主に短期金利を操作している」「銀行貸出は預金を必要としない(貸出が預金を創造する)」といったMMTの視点を取り入れることで、より正確な理解が可能になる。例えば、「日銀の量的緩和がインフレを引き起こす」という主張に対しても、「中央銀行のバランスシート操作だけでは民間の有効需要を大きく増やすことは難しく、財政政策との連携が不可欠」という見方ができる。
雇用統計や失業率に関するニュースもMMTの視点から読み替えられる。「自然失業率」や「構造的失業」という言葉で説明される失業は、実は政策選択の結果であり、就業保証プログラム(JG)のような政策によって解消可能な問題かもしれない。「失業率が下がりすぎるとインフレが加速する」という考え方(フィリップス曲線やNAIRUの発想)も、JGのような制度設計によって克服できる可能性があるとMMTは主張する。
国際収支や対外債務に関するニュースも、MMTの視点から見ると異なる解釈が可能になる。例えば、「経常収支黒字国は強く、赤字国は弱い」という従来の見方に対して、MMTは「部門間収支バランス」の観点から、「対外黒字(経常収支黒字)は、政府赤字がない限り、民間部門の赤字(負債増加)を意味する」ことを強調する。この視点からは、一国にとって経常収支黒字が必ずしも「良い」わけではないことが理解できる。
さらに、円高・円安に関するニュースも、MMTの視点からは興味深い読み替えが可能だ。「政府債務がGDP比で高いと通貨価値が下落する」という主張に対して、MMTは「対外債務(外貨建て)と自国通貨建て債務は全く異なるものであり、後者の増加は必ずしも通貨価値の下落にはつながらない」と主張する。実際、日本の公的債務がGDP比で先進国最高水準であるにもかかわらず、円が急落していないという事実は、MMTの視点からはより理解しやすいかもしれない。
このように、MMTの理解は、日々の経済ニュースを読む際の批判的思考のツールとなり、慣例的な経済言説に隠された前提条件や暗黙の仮定を明らかにすることを可能にする。経済報道を受動的に消費するのではなく、能動的に解釈するための視点を獲得できるのだ。
政策論議への参加と評価基準の確立
MMTの理解は、経済政策に関する公共の議論により効果的に参加するための基盤を提供する。現在の政策論議の多くは、旧来の経済学的前提に基づいているが、MMTを学ぶことで、こうした前提に挑戦し、議論の枠組み自体を問い直すことができる。
例えば、「財政再建は必要か?」という問いに対して、MMTの視点からは「財政収支の均衡自体を目標にするのではなく、完全雇用と物価安定という実体経済の目標を達成するための手段として財政政策を評価すべき」という発想が可能になる。これは、アバ・ラーナーが提唱した「機能的財政(Functional Finance)」の考え方に基づくものであり、財政政策は単に「収支がバランスしているか」ではなく「どのような機能を果たしているか」で評価すべきという主張だ。
具体的な政策評価の基準として、以下のような視点を持つことができる:
・この政策は、実質的な完全雇用(非自発的失業の解消)の達成にどう貢献するか?
・民間部門の純貯蓄願望を満たすために、どの程度の政府赤字が望ましいか?
・インフレリスクはどの程度あり、それを管理するためのメカニズムは組み込まれているか?
・この政策は、実物資源の効率的な活用と配分にどう貢献するか?
・就業保証プログラム(JG)による雇用創出と、既存の失業保険等の所得保障策とを比較した場合、どちらがより効果的か?
・政策が所得分配や富の分配に与える影響はどうか?
・政策は環境持続可能性にどのような影響を与えるか?
・長期的な生産力や技術進歩にどのような影響を与えるか?
例えば、「消費税率引き上げは財政健全化のために必要」という主張を評価する際に、MMTの視点からは「税の目的は政府の財源確保よりも総需要の管理とインフレ抑制にある」と考え、「現在の経済状況で消費税増税は総需要を過度に抑制し、デフレ圧力を強めないか?」と問うことができる。また、所得再分配の観点から見れば、消費税は逆進性があるため、格差是正という目的には必ずしも適していないという議論も可能だ。
また、社会保障制度に関する議論も、MMTの視点から捉え直すことができる。「少子高齢化で年金制度が破綻する」という懸念に対して、MMTは「自国通貨建てでの支払いである限り、政府は常に支払能力を持つ」と主張する。真の問題は「お金」ではなく、将来の実物資源(労働力、食料、住宅、医療サービスなど)が高齢者と現役世代の両方のニーズを満たすのに十分かどうかだ。つまり、問題は財政ではなく実物経済の生産力なのである。この視点は、社会保障に関する議論の方向性を大きく変える可能性がある。
雇用政策に関しても、MMTは独自の視点を提供する。従来の雇用政策は、総需要管理と労働市場の規制緩和によって失業を減らそうとする間接的なアプローチが主流だった。これに対してMMTは、就業保証プログラム(JG)という直接的な雇用創出策を提案する。これは「仕事への権利」という考え方に基づくものであり、民間企業が提供できない雇用を、最後の雇用主としての政府が提供するというアプローチだ。この視点からは、失業は単なる「市場の不完全性」ではなく、政策の失敗として捉えられる。
中央銀行の独立性という問題も、MMTの視点から検討できる。従来は、インフレ抑制のために中央銀行を政府から独立させるべきという主張が強かったが、MMTでは財政政策と金融政策の密接な連携が重要視される。特に低金利環境では、金融政策の効果は限定的であり、財政政策との連携なしには完全雇用も物価安定も達成できないとMMTは主張する。この視点からは、中央銀行の独立性というよりも、財政当局と金融当局の効果的な政策協調の仕組みをどう設計するかが重要な論点となる。
国際的な政策協調に関しても、MMTは従来とは異なる視点を提供する。自国通貨発行国の財政主権を重視するMMTの立場からは、IMFや世界銀行による構造調整プログラムのような外部からの財政規律の押し付けは再考の余地がある。一方で、環境問題や格差問題などグローバルな課題に対しては、各国が財政的余地を活用しつつ協調して取り組む必要性も認識される。
MMTの視点は、こうした様々な政策領域において、従来の議論の前提を問い直し、より実質的な政策目標(完全雇用、物価安定、持続可能性など)に焦点を当てた建設的な対話を可能にする。ただし、MMTの主張が正しいかどうかを別としても、その問題提起自体が政策論議を豊かにする効果を持つことは間違いないだろう。
個人の財務・投資判断のリフレーミング
MMTの考え方は、個人の財務計画や投資判断にも新たな視座を提供する。特に、政府債務や財政政策と民間資産の関係に関するMMTの洞察は、中長期的な資産運用戦略に示唆を与える。
例えば、「政府の財政赤字は民間部門の純資産の源泉」というMMTの視点からは、以下のような考察が可能になる:
・財政赤字が継続する期間は、民間部門全体の金融資産も増加する傾向にある
・逆に、政府が大幅な財政黒字を目指す場合、民間部門は純負債を抱えるか、大幅な貿易黒字を達成する必要がある
・特に対外収支が均衡している国では、政府財政と民間財政はより直接的に連動する
・政府支出の内容や方向性(どの分野にお金が流れるか)は、特定セクターの収益性に大きな影響を与える
・財政政策と金融政策の組み合わせが、資産価格やインフレ率に影響を与える
このような理解に基づくと、例えば日本のように継続的な財政赤字を維持している国では、民間の純金融資産も増加し続ける傾向があると考えられる。これは資産運用の面で、株式や債券などの金融資産全体の長期的な成長に対する一定の期待を持つ根拠となり得る。具体的には、家計金融資産が継続的に増加しやすい環境であり、それが投資マネーの供給源となると考えられる。
また、MMTの国債に対する見方は、個人投資家の債券投資に関する考え方にも影響を与える。従来の見方では、政府債務が膨らむと国債価格の下落や債務不履行リスクが高まるとされてきた。しかしMMTによれば、自国通貨建て国債を発行する主権通貨国には技術的なデフォルトリスクは存在しない。むしろ、国債は安全資産として機能し、民間部門の富の貯蔵手段となる。このような視点から、日本国債などの投資判断をより冷静に行うことができるかもしれない。ただし、インフレリスクや為替リスクは依然として存在するため、それらのリスクについては別途考慮する必要がある。
MMTは金融政策と財政政策の関係についても新たな見方を提供する。中央銀行の金利政策と政府の財政政策は密接に連動しており、特に低金利環境下では金融政策の効果は限定的で、財政政策がより重要になるとMMTは主張する。これは、金利動向だけでなく財政政策の方向性もポートフォリオ決定の重要な要素として考慮すべきことを示唆している。
例えば、大規模な財政出動が予想される場合、その資金の流れる先(インフラ、医療、教育など)に関連するセクターの株式などが恩恵を受ける可能性がある。グリーン・ニューディールのような環境投資が進められる場合は、再生可能エネルギー関連企業の成長が期待できるかもしれない。就業保証プログラム(JG)が導入されれば、消費関連セクターが恩恵を受ける可能性がある。このように、財政政策の方向性を投資判断に組み込むことが重要になる。
インフレ見通しについても、MMTの視点は有用な示唆を与える。MMTによれば、インフレーションは経済全体の総需要が実物的な供給能力を超えた場合に発生する現象だ。つまり、失業率が低く稼働率が高い状態で過剰な政府支出が行われるとインフレリスクが高まるが、遊休資源がある状態では財政拡大がすぐにインフレにつながるわけではない。この視点は、インフレ観測と資産配分(インフレヘッジ資産への投資など)を考える上で役立つ。
さらに、MMTの外国為替に関する見解も投資判断において参考になる。MMTは、変動為替相場制の下では、国内政策目標(完全雇用と物価安定)と対外収支のバランスを同時に達成することが可能だと主張する。為替レートは国内経済の自動調整弁として機能し、過度な経常収支不均衡を抑制する役割を果たす。この視点からは、経常赤字が続く国の通貨は長期的に減価する傾向があり、反対に経常黒字が続く国の通貨は長期的に増価する傾向があると考えられる。こうした為替変動の基本的なパターンを理解することは、国際分散投資や為替リスク管理に役立つ。
個人の貯蓄戦略についても、MMTは従来とは異なる視点を提供する。主権通貨国では政府の貯蓄(財政黒字)は必ずしも「良いこと」ではなく、むしろ民間部門から純金融資産を奪うことになるとMMTは指摘する。この視点からは、政府が財政黒字を目指す局面では、家計も企業も債務削減に努めることが難しくなる可能性があり、逆に政府が財政赤字を維持している局面では、民間の債務削減と資産形成がしやすくなると考えられる。これは個人の貯蓄計画を立てる上でのマクロ経済的な背景として考慮すべきポイントだろう。
ただし、MMTの視点を個人の投資判断に活用する際には、政治的な現実や政策実行上の制約も考慮する必要がある。MMTが理論的に正しいとしても、政策決定者がその視点を採用するとは限らないからだ。また、市場参加者の多くが従来の経済理論に基づいて行動している場合、短期的な市場動向はそうした一般的な見方に影響されることも念頭に置くべきだろう。
企業経営・事業計画への応用
MMTの視点は、企業経営者や起業家にとってもマクロ経済環境の読解と事業戦略の策定に役立つ視点を提供する。特に、政府の財政政策と民間セクターの経済活動の関係に関するMMTの理解は、ビジネス環境の予測と対応に新たな角度をもたらす。
例えば、MMTの部門別バランスの考え方は、マクロ経済の流れを読む上で示唆に富む:
・政府が緊縮財政に転じる場合、民間部門全体では資金不足あるいは借入増加の圧力が高まる可能性がある
・逆に、政府の積極財政は民間部門への資金流入を意味し、消費や投資の環境改善につながる可能性がある
・ただし、経済が完全雇用に近い状態では、財政拡大がインフレ圧力を高める可能性があり、その場合は税率引き上げなどの需要抑制策が取られる可能性がある
・税制改革の方向性(所得税、法人税、消費税、資産税などの配分)は、需要構造や企業収益に大きな影響を与える
・政府支出の内容(公共投資、社会保障、教育、防衛など)によって、産業別の恩恵は大きく異なる
こうした理解に基づき、例えば財政緊縮が予想される局面では、民間の支出意欲が全般的に抑制される可能性を考慮し、コスト管理やキャッシュフロー改善に重点を置く戦略が重要になるかもしれない。反対に、積極財政が予想される局面では、市場拡大を見込んだ設備投資や人材確保に前向きな戦略が検討できる。
また、政府の財政出動の分野別配分を分析することで、業種別の成長機会を見出すことができる。例えば、インフラ投資に重点が置かれる場合は建設・エンジニアリング・素材関連の需要拡大が、医療・介護への支出拡大が見込まれる場合はヘルスケア関連産業の成長が期待できる。グリーン投資が増える場合は再生可能エネルギーや省エネ技術関連の需要拡大が見込まれる。経営者は、こうした政府支出の流れを読み取り、自社の事業方針に反映させることが重要だ。
MMTは雇用政策に関しても独自の見解を持っており、特に就業保証プログラム(JG)の提案は、労働市場と賃金構造に関する示唆を含んでいる。JGが導入された場合、最低賃金水準での雇用が保証されるため、企業は少なくともそれを上回る賃金・労働条件を提供しなければ人材を確保できなくなる。こうした可能性を事業計画に組み込むことは、中長期的な人材戦略を考える上で重要な視点となり得る。
さらに、MMTのインフレに関する考え方も事業計画に活かせる。MMTは、インフレは総需要が実物資源の供給能力を超えた場合に発生すると捉える。この視点からは、景気過熱の局面では物価上昇圧力が強まり、それに対処するため財政引き締め(増税や支出削減)が行われる可能性がある。逆に、景気後退期には財政拡大によって需要を下支えする政策が取られやすい。こうした景気循環と政策対応のパターンを理解することで、より先見性のある経営判断が可能になる。
資金調達戦略にもMMTの視点は参考になる。MMTの内生的貨幣供給論によれば、銀行貸出は預金量によって制約されるのではなく、むしろ貸出自体が預金を創造する。この視点からは、金融機関の貸出意欲は預金量ではなく、貸出先の信用力や事業の将来性、そして中央銀行の金利政策によって左右される。企業としては、資金調達環境が中央銀行の政策と政府の財政政策によって大きく影響されることを認識し、金融政策と財政政策の方向性を見極めた上で調達戦略を立てることが重要になる。
また、為替リスク管理についてもMMTは有用な視点を提供する。MMTによれば、変動為替相場制下での為替レートは、経常収支や資本収支の不均衡を調整する自動的なメカニズムとして機能する。この視点からは、貿易赤字が持続する国の通貨は長期的に減価傾向にあり、貿易黒字が持続する国の通貨は長期的に増価傾向にあると考えられる。国際事業展開や国際調達を行う企業にとって、こうした長期的な為替トレンドを理解することはリスク管理上重要だ。
産業政策に対する見方もMMTによって変わり得る。従来、財政制約を理由に公的支援が限定的だった分野(基礎研究、インフラ、教育など)においても、MMTの視点からはより積極的な投資が可能かもしれない。これは特に新興産業や技術開発に取り組む企業にとって、公的支援や官民連携の可能性が広がることを意味する。企業としては、こうした政策環境の変化を先取りした事業展開を検討する価値があるだろう。
最後に、企業の社会的責任(CSR)や環境・社会・ガバナンス(ESG)に関する取り組みも、MMTの視点から再考できる。MMTの実物資源制約の考え方は、環境の持続可能性という課題と親和性が高い。また、完全雇用と適正な賃金を重視するMMTの姿勢は、社会的側面のESG要素と整合的だ。企業としては、こうした社会経済的な価値観の変化を先取りした事業戦略を構築することで、長期的な企業価値向上につなげることができるだろう。
教育・研究のためのフレームワーク
経済学を学ぶ学生や研究者、あるいは社会科学全般に関心を持つ人々にとって、MMTは既存の経済理論を相対化し、より広い視野で経済現象を捉えるための貴重なフレームワークを提供する。
まず、MMTの歴史的・理論的背景を理解することは、経済思想史の豊かな流れを知る助けとなる。MMTはポスト・ケインズ派経済学を基盤としつつ、制度派経済学や国定貨幣論などの要素も取り入れている。本書の記述を出発点として、それらの思想的系譜をたどることで、主流派経済学の外側に存在する多様な経済学的伝統への理解を深めることができる。
例えば、MMTの理論的源流として本書で言及される以下のような経済学者や学派の著作にあたることで、経済思想の多様性を探究できる:
・ゲオルク・F・クナップ:『国家貨幣論』(1905年)で国定貨幣論(Chartalism)を提唱
・アルフレッド・ミッチェル・イネス:『信用理論による貨幣の説明』(1913-14年)で信用貨幣論を展開
・アバ・ラーナー:『機能的財政と連邦債務』(1943年)で機能的財政論を提唱
・ハイマン・ミンスキー:『金融不安定性仮説』を通じて金融システムの内在的不安定性を指摘
・ウィン・ゴドリー:部門間収支アプローチとストック・フロー一貫性モデルを発展
また、MMTの視点は、経済現象を研究する際の問いの立て方自体を変える可能性がある。例えば:
・「政府の予算制約」ではなく「経済全体の実物資源制約」に焦点を当てる
・「貨幣量と物価」の関係ではなく「総需要と生産能力」の関係からインフレを考察する
・「貨幣の中立性」ではなく「貨幣の内生性」を前提とした分析を行う
・「自然失業率」ではなく「政策的に達成可能な完全雇用」の可能性を探る
・「市場の自動調整機能」ではなく「有効需要の管理」と「制度設計」の役割を重視する
・「民間主導の経済成長」と「政府主導の経済安定化」の相互補完性を探究する
このような視点の転換は、既存の研究枠組みでは見過ごされがちな問題設定や仮説の発見につながる可能性がある。例えば、失業を「市場の不完全性」や「個人の属性」に起因するものとしてではなく、「有効需要の不足」や「制度的欠陥」として捉え直すことで、新たな実証研究の方向性が開ける。
さらに、MMTは現代の経済問題、特に財政政策、金融政策、雇用政策などに関する実践的な研究テーマを提供する。例えば、以下のようなテーマはMMTの視点から新たな光を当てることができる:
・「日本の財政政策とデフレーションの関係」
・「租税の役割と機能の再検討」
・「就業保証プログラムの実現可能性と効果」
・「中央銀行の独立性と財政・金融政策の協調の再考」
・「環境問題と経済成長の両立可能性」
・「所得・富の分配に対する財政政策の影響」
・「グローバル化と国家主権の相克」
例えば、「日本のバブル崩壊後の長期停滞」という問題を考える場合、従来は「構造改革の遅れ」や「生産性向上の停滞」といった供給サイドの要因が強調されがちだった。しかしMMTの視点からは、政府の財政政策が民間の債務削減(バランスシート調整)を十分に支援できなかった可能性や、有効需要の創出が不十分だった可能性など、需要サイドの要因にも光を当てることができる。
特に学際的研究を志す人々にとって、MMTの視点は経済学と他の社会科学(政治学、社会学、歴史学など)を架橋する概念的道具となり得る。例えば、貨幣の社会的・政治的性質に関するMMTの考察は、経済現象を純粋に「技術的」な問題としてではなく、社会的・政治的文脈の中で理解するアプローチを促進する。
経済教育の面でも、MMTは重要な貢献をする可能性がある。従来の教科書的な経済学では、政府を「大きな家計」のように扱い、「入ってくるお金」(税収)と「使うお金」(政府支出)のバランスを取るべきという話から始めることが多い。しかしMMTの視点からは、通貨発行者(政府・中央銀行)と通貨使用者(家計・企業)の根本的な違いから説き起こし、マクロ経済のより現実的な理解を促すことができる。これは特に、初学者が経済学に対して感じがちな「現実と合っていない」という違和感を解消する助けになるかもしれない。
実証研究の面では、MMTの主張をデータで検証する余地も大きい。例えば、部門間収支の関係性(政府赤字と民間黒字の相関)、財政赤字とインフレの関係、貨幣供給の内生性、税制と所得分配の関係など、MMTの理論的主張は様々な実証的検討の対象となり得る。本書の理論的枠組みを踏まえた上で、計量経済学的手法を用いてこれらの関係性を検証する研究は、経済学の知見を豊かにするだろう。
最後に、MMTの政策提言(特に就業保証プログラム)については、パイロット実験やシミュレーションを通じた検証も可能だ。実際、世界各地で様々な形の雇用保証プログラムが試みられており(インドの農村雇用保証法やアルゼンチンのJefes計画など)、それらの経済的・社会的影響を分析することで、MMTの理論的主張と政策提言の関係をより深く理解することができる。
社会運動・市民活動の理論的基盤として
MMTの理解は、経済政策や社会問題に関わる市民活動や社会運動にとっても、オルタナティブな政策ビジョンを構築するための理論的基盤となり得る。特に「財政的制約」を理由に社会的ニーズへの対応が先送りにされがちな現状に対して、新たな視座を提供する。
例えば、以下のような社会的課題に取り組む際、MMTの視点は従来の議論の枠組みを変える可能性がある:
・雇用保障と労働環境:MMTの就業保証プログラム(JG)は、雇用を「権利」として捉え直し、単なる失業対策を超えて、ディーセントワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を保障するための制度的枠組みを提案している。これは労働運動や社会的包摂に関わる活動に新たな視点をもたらす。従来の労働運動が既存の雇用者の賃金・労働条件の改善に焦点を当てる傾向があったのに対し、MMTの視点は失業者も含めた全ての人の労働の権利を重視する。これは非正規雇用や若年失業、長期失業などの問題に取り組む市民団体にとって、新たな政策的要求の基盤となり得る。
・環境問題と気候変動対策:「お金がない」という理由で環境対策が後回しにされる状況に対して、MMTは「実物資源の制約」こそが真の問題であり、主権通貨国家には環境投資のための財政的余地が存在すると主張する。これはグリーンニューディールのような政策提案の理論的裏付けとなる。特に、環境保護と雇用創出を両立させる政策枠組みとして、環境保全活動を取り入れた就業保証プログラムの可能性を示唆している点は、環境運動と労働運動の連携を促す視点となるだろう。また、炭素税のような環境税制の目的を「財源確保」ではなく「行動変容」と捉え直すMMTの視点は、より効果的な環境政策の設計に貢献する可能性がある。
・社会保障と格差問題:高齢化や医療コストの上昇に伴い、社会保障の「持続可能性」が問題視されるが、MMTの視点からは、問題は「財源」ではなく「実物資源の配分」にある。これは、社会保障や再分配政策に関する議論の枠組みを変える可能性がある。特に「公的年金が破綻する」といった言説に対して、MMTは社会保障を受ける権利が財政的制約によって左右されるべきではなく、社会全体の実物資源(労働力や生産物)をどう配分するかという政治的選択の問題であることを強調する。これは高齢者福祉や医療・介護の充実を求める市民活動に、新たな理論的根拠を提供する。また、税制を通じた富の再分配の役割を重視するMMTの視点は、格差是正を求める社会運動にとっても重要な観点となる。
・公共インフラの整備:老朽化するインフラの更新や新たな公共投資に対して、「財政制約」を理由に消極的になりがちな政策決定に対して、MMTは別の視点を提供する。特に、遊休資源(失業者など)が存在する状況では、公共投資の拡大によるクラウディングアウト(民間投資の押し出し)の心配は少ないとMMTは主張する。近年、インフラ老朽化や自然災害対策に関する市民の関心が高まっているが、MMTの視点は「財源がない」という政治的応答に対して、より積極的な投資を求める理論的根拠を提供する。特に地域活性化や地方創生に関わる市民団体にとって、MMTは地域の雇用創出とインフラ整備を同時に進める政策枠組みの可能性を示唆している。
・教育と研究:「財政健全化」の名の下に教育予算や研究開発費が削減される傾向に対して、MMTは人的資本への投資が長期的な経済成長と社会の安定に不可欠であることを強調する。教育や研究への投資は、将来の生産性向上や技術革新につながるものであり、むしろ積極的に拡大すべきだとMMTは示唆する。これは教育の無償化や高等教育への公的支援拡大、基礎研究の充実を求める市民活動にとって、従来とは異なる切り口での政策提言を可能にする。特に、学生ローンの問題や教育格差の是正に取り組む団体にとって、MMTの視点は教育の権利と公的責任を再確認する理論的支えとなり得る。
・医療とケア労働:医療費の増大や看護・介護人材の不足が課題となる中、MMTはケア労働の社会的価値を再評価し、適切な賃金と労働条件の保障が必要だと主張する。特に就業保証プログラム(JG)の文脈において、看護助手や介護補助、地域福祉などのケア関連の仕事を創出する可能性を示唆している。これは医療従事者の働き方改革やケア労働の価値再評価を求める運動にとって、新たな政策的枠組みを提供するものだ。また、「医療費抑制」という財政的制約からではなく、医療資源(医師や設備など)の有効活用という視点から医療政策を考えるMMTのアプローチは、医療アクセスの改善を求める市民活動にも有用な視点をもたらす。
市民活動や社会運動においてMMTの視点を活用する際には、専門的な経済用語を一般市民に分かりやすく伝える工夫も重要になる。本書の内容を基に、より平易な言葉でMMTの主要な洞察を伝えるための解説資料やワークショップなどを開発することも、一つの活用方法だろう。
また、草の根レベルでの政策対話や市民教育にMMTの視点を取り入れることで、「お金がないから○○はできない」という固定観念を超えた建設的な議論が可能になる。例えば、地域コミュニティの課題解決における行政の役割や、地域通貨などの代替的経済システムの可能性についても、MMTの視点から新たな発想が生まれるかもしれない。
ただし、MMTの視点を社会運動に活用する際には、既存の政治的・経済的権力構造が、必ずしもMMTの提言を受け入れるとは限らないという現実的な制約も認識する必要がある。そのため、段階的な改革や実験的なプロジェクトなど、実現可能性の高い取り組みから始め、徐々により根本的な変革へと進むアプローチも検討する価値があるだろう。
所感
『MMT現代貨幣理論入門』を通読して最も強く感じたのは、私たちが当たり前のように受け入れている経済の「常識」がいかに再検討の余地を含んでいるかという点だ。特に、「政府の財政は家計の財政と同じように考えるべき」「財政赤字は将来世代への負担」といった広く浸透している考え方に対して、本書は根本的な問い直しを迫る。
MMTの主張は確かに刺激的であり、時に直感に反するものだが、その理論的一貫性と現実の通貨システムの運用に基づいた論理展開には説得力がある。特に、「主権通貨発行国は自国通貨建て債務でデフォルトしない」「政府支出は基本的に『キーストローク』によって行われる」といった指摘は、現代の通貨制度の仕組みを考えると否定しがたい現実を突いている。
他方、MMTの実践面では疑問も残る。財政拡大によるインフレリスクを適切に管理できるのか、政治的な実行可能性はどうか、グローバル経済における為替レートへの影響はどうなるのか、といった点は本書でも十分に論じられているとは言い難い。特に、「インフレが発生したら増税や支出削減で対応する」というMMTの処方箋は、政治的な現実を考えると実行可能性に疑問が残る。
また、本書の難点として、その難解さが挙げられる。「入門」と銘打っているものの、経済学の予備知識がない読者にとっては消化しきれない内容も多い。特に、銀行システムのオペレーションや中央銀行の機能に関する詳細な説明は、専門的な知識を前提としている部分がある。
それでも、本書の価値は極めて高い。MMTが正しいか間違っているかという二項対立を超えて、本書は経済現象を異なる角度から捉え直す視点を提供してくれる。特に、「貨幣とは何か」「政府と民間の経済的関係はどのようなものか」「完全雇用とインフレーション抑制は両立可能か」といった根本的な問いに対して、MMTならではの答えを示している。
現代の経済問題、特に低成長、低インフレ、格差拡大、雇用の質の低下などに対して、主流派経済学の処方箋が十分な効果を上げていない状況において、MMTのような「異端」の理論が注目を集めることには必然性がある。たとえMMTの全てを受け入れなくとも、その視点を理解することは、経済に関する思考の幅を広げ、より創造的な政策アプローチを考える助けになるだろう。
まとめ
L・ランダル・レイの『MMT現代貨幣理論入門』は、現代貨幣理論(MMT)の包括的な解説書であり、従来の経済学的常識に根本的な挑戦を突きつける重要な著作だ。MMTは、主権通貨を発行する政府は財政的制約を本質的に受けず、完全雇用と物価安定を達成するために積極的に財政政策を活用すべきであるという、挑戦的な視座を提供する。
本書の核心は、貨幣の本質についての再考にある。MMTは、現代の不換紙幣は政府の負債証書であり、その流通は納税義務によって担保されていると説く。この「租税駆動貨幣論」に基づき、政府支出と徴税の関係、財政赤字と公的債務の性質、そして完全雇用達成のための政策アプローチを根本から捉え直している。
本書の理解は、日常の経済ニュースの読解から個人の投資判断、社会問題への取り組みまで、幅広い分野に新たな視点をもたらす可能性を秘めている。特に、「財政破綻」「国の借金」といった常套句で語られる経済問題を、より実質的な「実物資源の配分」や「完全雇用とインフレのバランス」という観点から捉え直す契機となる。
一方で、本書は「入門」と銘打ちながらも難解な部分も多く、経済学の予備知識がない読者にとっては消化しきれない内容も含んでいる。また、MMTの主張、特にインフレ管理や政治的実行可能性に関しては、疑問や批判も少なくない。
それでも、現代の経済的課題に対して主流派経済学の処方箋が十分な効果を上げていない状況下で、MMTのような「異端」の理論が提供する新たな視座は、経済政策の可能性を広げる上で極めて重要である。特に、「財政的制約」を理由に様々な社会的ニーズが後回しにされる現状において、MMTは政策的選択肢の幅を広げるための理論的基盤となり得る。
本書は、経済学の正統と異端の境界を問い直し、より豊かな経済思想の発展に貢献する重要な一冊だ。経済学を学ぶ学生や研究者はもちろん、経済政策に関心を持つ市民活動家、長期的な経済見通しを必要とする投資家、そして「常識」を疑う勇気を持つすべての人々にとって、刺激的な知的冒険の出発点となるだろう。
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