著者・出版社情報
著者:細谷 功・坂田 幸樹
出版社:ダイヤモンド社
発行年:2021年
概要
「構想力が劇的に高まる アーキテクト思考」は、変化の激しい現代ビジネス環境において必要とされる新しい思考法を提唱する一冊です。著者の細谷功氏はベストセラー『地頭力を鍛える』で知られるビジネスコンサルタントであり、共著者の坂田幸樹氏はIGPIシンガポールのCEOを務め、アジアを舞台に活躍するビジネスストラテジストです。
本書で紹介される「アーキテクト思考」とは、ゼロベースで抽象度の高い全体構想を描く能力のことです。建築家(アーキテクト)が建物の全体像を設計するように、ビジネスにおいても「全体の構造」を俯瞰的に捉え、設計する思考法を意味します。
現代は、VUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)と呼ばれる予測不能な時代です。こうした時代において、従来の「カイゼン」のような連続的な改善だけでは対応できない非連続的な変化が次々と起こっています。AIの発展により具体的な作業の多くが自動化され、単に与えられた仕事をこなすスキルだけでは、将来的な価値創出が難しくなりつつあります。
アーキテクト思考の核心は、「具体」と「抽象」を行き来するダイナミックな思考プロセスにあります。具体的なデータや現象から抽象的な本質やパターンを見出し、再び具体的な解決策へと落とし込む。この往還運動によって、新たな視点からの問題発見と革新的な解決策の創出が可能になるのです。
特に日本企業に多い「川下思考」(具体的な実行や改善に偏る思考)に対して、本書は「川上思考」(全体設計や構想を重視する思考)の重要性を説き、両者をバランスよく行き来する能力こそが、これからのビジネスパーソンに求められると主張します。
活用法
アーキテクト思考を実践に落とし込むための具体的な活用法を紹介します。この思考法は理論に留まらず、日々の業務や意思決定の場面で実践することで真価を発揮します。
具体と抽象を行き来するトレーニング法
アーキテクト思考の根幹である「具体と抽象の往還」を習得するには、意識的なトレーニングが有効です。
①日常的な物事の抽象化練習:身の回りの具体的な事象から抽象概念を導き出す習慣をつけましょう。例えば、「この会議が長引いた理由」を考える際に、「司会者の進行スキル不足」という具体的な理由だけでなく、「目的と役割の不明確さ」という抽象的な本質を考えてみます。
②抽象概念の具体化練習:逆に、抽象的な概念を具体例に落とし込む練習も重要です。「顧客満足度向上」という抽象的な目標を、「返信時間の短縮」「問い合わせ対応マニュアルの改善」といった具体的なアクションに変換する訓練を行いましょう。
③モデル図を描く習慣:思考を整理するために、図やモデルを描く習慣をつけることが効果的です。頭の中の抽象概念を視覚化することで、思考の抜け漏れに気づき、全体構造を把握しやすくなります。最初は簡単な業務フローから始め、徐々に複雑なビジネスモデルの図式化にチャレンジしてみましょう。
④「5つのなぜ」による抽象化:問題の表面的な理由を深堀りする「5つのなぜ」は、具体から抽象への移行に役立ちます。例えば「なぜ売上が下がったのか?」という問いに対し、5回「なぜ?」を繰り返すことで、表層的な理由から根本的な原因(より抽象度の高い問題)にたどり着けます。
ゼロベース思考の実践方法
アーキテクト思考のもう一つの柱である「ゼロベース思考」を身につける実践方法を紹介します。
①前提のリストアップと検証:現状の業務や戦略において「当たり前」とされている前提をすべてリストアップし、一つひとつ「本当にそうなのか?」と問い直す習慣をつけましょう。「このプロセスが必要なのは当然」「このターゲット層が最適なのは明らか」といった無意識の前提こそ、検証の対象にすべきです。
②第一原理思考の適用:物事を基本原則から考え直す「第一原理思考」は、ゼロベース発想に有効です。例えば「我々のビジネスの本質的な価値は何か?」「顧客が真に求めているものは何か?」という根本的な問いから思考を組み立て直してみましょう。
③逆転の発想:現状の反対を考えることで、固定観念を打破できます。「もし我々が今の主力製品をすべて廃止するとしたら?」「もし競合になったら、自社をどう攻撃するか?」といった逆転の問いは、新たな視点をもたらします。
④制約の一時的解除:「予算が無制限だったら」「技術的制約がなかったら」など、現実の制約を一時的に取り払った状態で理想を考え、それから現実的な解決策に落とし込む方法も効果的です。まずは理想形を描き、そこから逆算して現実解を見出すアプローチです。
全体俯瞰能力を高める方法
アーキテクトに不可欠な「全体を俯瞰する能力」を高めるための実践的アプローチです。
①システム思考の活用:個別の事象を単独で見るのではなく、相互関連性に注目するシステム思考を身につけましょう。例えば、組織の問題を「個人の能力」だけでなく、「評価制度」「組織構造」「情報共有の仕組み」など複数の要素の関係性として捉えます。
②マインドマップの活用:中心テーマから放射状に連想を広げるマインドマップは、全体像を視覚化するのに役立ちます。プロジェクト計画や問題分析の際に、関連要素を網羅的に書き出し、それらの関係性を可視化してみましょう。
③異なる視点からの検討:一つの問題を複数のステークホルダーの視点から考察する習慣をつけましょう。例えば、新サービス導入を「顧客」「従業員」「株主」「社会」など異なる視点から検討することで、見落としがちな側面に気づくことができます。
④時間軸を広げる:短期的視点だけでなく、中長期的な影響も含めて考える習慣をつけましょう。意思決定の際に「1ヶ月後」「1年後」「5年後」の影響を意識的に考えることで、時間軸を含めた全体俯瞰が可能になります。
問題発見能力を高める実践法
アーキテクト思考における「問題発見」のスキルを向上させる方法です。
①ボトルネック分析の実践:本書で紹介されているボトルネック発見フレームワークを活用して、システムや業務プロセスの中で最も制約となっている要素を特定する訓練を行いましょう。全体の流れを図式化し、どこに滞留が生じているかを可視化することが有効です。
②顧客ジャーニーマップの作成:顧客の体験全体を時系列で描き出す「カスタマージャーニーマップ」を作成することで、従来見落としていた問題点や改善機会を発見できます。実際の顧客の声を集め、各接点での感情や不満を可視化してみましょう。
③トレンド分析と未来予測:業界の動向や社会変化を定期的に分析し、将来起こりうる問題を先取りする習慣をつけましょう。「3年後、この業界で最も大きな課題は何か?」といった問いを定期的に考えることで、先見性が養われます。
④GAP分析の実施:理想状態と現状のギャップを体系的に分析することで、取り組むべき問題が明確になります。「あるべき姿」を描き、それと「現状」を項目ごとに比較することで、優先的に取り組むべき課題が可視化されます。
バリューチェーン分析の活用法
本書で紹介されている「バリューチェーン/経営資源マトリックス」を実務に活用する方法です。
①自社のバリューチェーン図解:自社のビジネスを「原材料調達」「製造」「物流」「マーケティング」「販売」「アフターサービス」などの活動に分解し、各活動がどのように価値を創出しているかを可視化します。
②経営資源(ヒト・モノ・カネ・情報)の配置分析:バリューチェーンの各段階に、どの経営資源がどれだけ投入されているかをマッピングします。例えば、「製造段階に人的資源が集中し、マーケティング段階には情報資源が不足している」といった構造的な偏りを発見できます。
③競合との比較分析:自社と競合のバリューチェーンを比較し、競争優位性や差別化点を特定します。「競合は物流に強みがあるが、我々はアフターサービスで優位性がある」といった分析が可能になります。
④再構築シミュレーション:理想的なバリューチェーンの姿を描き、そこに経営資源を最適に再配分するシミュレーションを行います。「もし製造工程をアウトソースして、商品開発とマーケティングに資源を集中させたら?」といった大胆な再構築案を検討できます。
事業特性把握フレームワークの実践
本書で言及されている「事業特性把握」フレームワークを具体的な場面で活用する方法です。
①事業の本質的特徴の抽出:自社事業の根本的な特性を抽象化して理解します。例えば「資産型vs人材型」「ストック型vsフロー型」「労働集約型vs資本集約型」といった軸で事業の本質を捉え直してみましょう。
②事業モデルの抽象化と再定義:現在の事業を抽象的なモデルとして捉え直します。例えば小売業を「在庫リスクを取りながら需要と供給の時間的ギャップを埋めるビジネス」と抽象化することで、新たな事業機会や脅威が見えてくるかもしれません。
③異業種の類似モデル探索:抽象化した事業モデルを基に、一見異なる業界でも類似の特性を持つビジネスモデルを探します。例えば「サブスクリプションモデル」という抽象概念で考えれば、音楽配信と保険業には共通点があることに気づくでしょう。こうした類推から新たなアイデアが生まれます。
④事業ポートフォリオの再評価:複数事業を展開している場合、各事業の抽象的特性を基に全体ポートフォリオを再評価します。シナジー効果が期待できる組み合わせや、リスク分散の観点から不足している事業特性を特定できます。
新興国市場アプローチの実践
本書が取り上げる東南アジア市場の事例から学び、新興国市場を攻略するためのアーキテクト思考の応用法です。
①ゼロベースでのインフラ設計:Gojekの事例のように、既存インフラが不十分な市場では、ビジネスとインフラを同時に構築する発想が重要です。例えば、決済インフラが未発達な市場では、自社の決済システムを構築しながらビジネスを展開するアプローチを検討します。
②地域限定の集中戦略:Gojekがジャカルタに集中したように、広大な市場全体ではなく、特定地域での成功モデル確立を優先します。成功パターンを確立してから横展開する戦略は、リソースが限られる状況で特に有効です。
③ローカルニーズへの徹底適応:抽象的なビジネスモデルを、現地の具体的なニーズに合わせて柔軟にカスタマイズします。例えば、「ドライバーにユニフォームを提供し帰属意識を高める」といったGojekの工夫のように、現地特有の課題に対する具体的な解決策を構築します。
④スーパーアプリ構想の応用:基盤となるサービスで顧客接点を確保した後、多様なサービスを統合していく「スーパーアプリ」戦略を自社のコンテキストで検討します。例えば、頻繁に使用されるアプリに、関連性の高い新サービスを順次追加していく発想です。
チームでのアーキテクト思考実践法
個人だけでなく、チーム全体でアーキテクト思考を実践するための方法です。
①多様な視点を持つチーム構成:「具体派」と「抽象派」のバランスの取れたチーム編成を意識します。詳細に強い専門家と、全体構想に長けたジェネラリストの両方を含めることで、チーム全体として具体と抽象を往還できる体制を作ります。
②ゼロベースセッションの定期開催:通常の改善ミーティングとは別に、すべての前提を一旦白紙に戻して考える「ゼロベースセッション」を定期的に開催します。「もし今から事業を立ち上げるとしたら、どう設計するか?」といったテーマで議論を促進します。
③「抽象ラウンド」と「具体ラウンド」の分離:会議の中で「今は抽象的な議論をする時間」「今は具体的なアクションを考える時間」と明確に分けることで、議論の質が向上します。抽象的な議論中に「それは具体的すぎる」、具体的な議論中に「それは抽象的すぎる」と指摘できる文化を作りましょう。
④定期的な全体俯瞰セッション:日々の業務に埋没せず、定期的に「我々は何のために存在するのか?」「真の競争相手は誰か?」といった本質的な問いを投げかけるセッションを持ちます。こうした機会が、チーム全体の視野を広げ、アーキテクト思考を促進します。
個人のキャリア設計への応用
アーキテクト思考を自分自身のキャリア設計に応用する方法です。
①キャリアの抽象化と再定義:自分の職歴を具体的な職種や業界ではなく、抽象的なスキルや価値提供の観点から再定義します。例えば「営業職」ではなく「関係構築能力」「問題解決能力」といった抽象的な強みとして捉え直すことで、新たなキャリアパスが見えてくることがあります。
②キャリアのゼロベース設計:「もし今から職業を選び直せるとしたら?」という問いを立て、現在の制約を一旦取り払ってキャリアを構想します。理想形を描いた上で、そこへの現実的な道筋を逆算する発想です。
③長期的視点からの俯瞰:5年後、10年後の自分を想像し、そこから逆算してキャリア設計を考えます。将来の環境変化(AI普及など)を踏まえた上で、どのような能力や経験が価値を持つかを考察しましょう。
④「具体と抽象」の往還による自己分析:具体的な経験(「〇〇プロジェクトで成功した」)から抽象的な強み(「複雑な利害関係の調整能力」)を抽出し、さらに新たな具体的キャリアオプション(「M&Aアドバイザリー」など)を発想する循環を作ります。
所感
「アーキテクト思考」を読み進めるにつれて、私はこれまでの自分の思考パターンを振り返らざるを得ませんでした。日々の業務に追われ、目の前の「具体」に埋没し、「全体像」や「本質」を見失っていたことに気づかされたのです。
特に印象的だったのは、日本企業に多い「川下思考」と「川上思考」の対比です。私たち日本人は、与えられた仕事を確実に遂行し、細部まで作り込む「川下」の能力に長けています。しかし、「そもそもこの仕事は必要なのか?」「別のアプローチはないのか?」といった根本的な問いを立てる「川上」の思考が弱い傾向にあると言われます。本書は、その両方をバランスよく往還することの重要性を説いており、非常に納得感がありました。
Gojekの事例も示唆に富んでいます。彼らは単にアメリカのUberのビジネスモデルを模倣するのではなく、インドネシアの独自の課題(支払いインフラの未整備、ドライバーの質の問題など)を深く理解し、ローカライズした解決策を構築しました。そして、一つのサービスで顧客接点を確保した後、次々と関連サービスを追加していく「スーパーアプリ」戦略を展開。この「抽象的なビジョン」と「具体的な課題解決」の両立が、彼らの成功を支えたのでしょう。
一方で、本書を読みながら感じた疑問もあります。アーキテクト思考は確かに強力ですが、組織の中でどのように浸透させるべきか。全員がアーキテクトになる必要はないはずですが、チーム内でバランスをどう取るべきか。また、日本の組織文化の中で、ゼロベース思考や抽象的な議論がどこまで受け入れられるのか。こうした実践面での課題も考えさせられました。
著者の経歴も興味深いポイントです。細谷氏の「具体と抽象」に関する方法論と、坂田氏の東南アジアでの実践経験が融合することで、理論と実践のバランスの取れた内容になっていると感じます。特に、坂田氏がシンガポールを拠点に活躍していることが、本書の国際的な視点の裏付けとなっているのでしょう。
総じて、この本は「思考の筋肉」を鍛えるためのトレーニングブックだと言えます。一朝一夕で身につくものではありませんが、継続的な実践により、変化の激しいVUCA時代を生き抜くための強力な武器になると確信しています。
まとめ
「構想力が劇的に高まる アーキテクト思考」は、変化の激しい現代において、新たな価値を創出するための思考法を提案する意欲作です。その核心は「具体と抽象を行き来する」ダイナミックな思考プロセスにあります。
本書の主要なメッセージは以下の通りです:
1. 変革期には新しい思考法が必要:VUCA時代において、従来の改善型思考だけでは対応できない非連続的な変化に直面しています。アーキテクト思考は、こうした時代に適応するための「思考のOS」と位置づけられます。
2. 具体と抽象の往還がカギ:アーキテクト思考の本質は、具体的な現象から抽象的な本質を見出し、再び具体的な解決策に落とし込む循環プロセスです。この往還能力が、革新的な問題解決を可能にします。
3. ゼロベースの構想力:既存の枠組みや前提にとらわれず、白紙の状態から全体構造を構想する力が、パラダイムシフトの時代には不可欠です。
4. 全体俯瞰の視点:部分最適ではなく全体最適を志向し、システム全体を鳥瞰する視点が、複雑な問題解決には必要です。
5. 実践的なフレームワークの活用:ボトルネック発見、バリューチェーン分析、事業特性把握など、本書で紹介されるフレームワークは、抽象思考を促進する実践的なツールとなります。
6. 新興国市場からの学び:東南アジアなどの新興国市場は、既存のインフラや慣習に縛られない「ゼロベース」での構想が求められるため、アーキテクト思考を学ぶ上で貴重な示唆を与えてくれます。
7. 継続的なトレーニングの必要性:アーキテクト思考は筋肉のように、意識的な訓練を通じて鍛えられるスキルです。日常的な実践と振り返りが重要です。
AIの発展により具体的な作業の多くが自動化される中、「問題を考え出す力」「全体を設計する力」は、これからのビジネスパーソンにとって不可欠なスキルとなるでしょう。本書は、そうした能力を体系的に習得するための道筋を示してくれています。
アーキテクト思考は、単なるビジネススキルではなく、複雑化する現代社会を主体的に生きるための「一生もの」の思考法と言えるかもしれません。具体と抽象を自在に行き来するこの思考法を身につけることで、不確実な未来を構想し、新たな価値を創造する力が培われるのです。
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