著者・出版社情報
著者:伊坂 幸太郎
出版社:集英社
出版年:2020年(単行本)
ジャンル:短編小説集 / 現代文学
概要
“当たり前”を覆す大胆な問いかけ――子ども目線で“大人の理不尽”を撃ち抜く五つの短編集
『逆ソクラテス』は、日本を代表する作家・伊坂幸太郎による五つの短編を収録した小説集です。タイトルにある「ソクラテス」は、古代ギリシアの哲学者であり、「問答法」や「無知の知」で有名な存在ですが、本書ではそれが“逆手に取られた”形で、大人の社会に根付く先入観や固定観念へ鋭く切り込む構造が特徴的です。
最も注目すべきは、各短編で「子どもの視点」が中心となり、教師や親、あるいは周囲の大人たちが抱える思い込みや独善を浮き彫りにする点。私たちは、大人こそ正しく知識を持っていると思いがちですが、本作に登場する子どもたちは、“本当にそうか?”と疑問を投げかけ“逆ソクラテス”的に大人を揺さぶるのです。
伊坂幸太郎ならではの軽妙な文体やウィットに富んだ会話が光り、読後には“そうだ、当たり前を疑ってみてもいいんだ”という爽快感と発見をもたらしてくれます。タイトルどおり“常識を疑うようになる”一冊として、多くの読者にとって新鮮な体験を与える作品と言えるでしょう。
考察
子どもが鮮やかに暴く“大人社会の欺瞞”:五つの短編を貫くメインテーマ
本書に収録される五つの短編は、それぞれ異なる舞台や異なるテーマを扱いつつ、共通して“大人が当たり前と思い込んでいること”を子どもたちが疑い、別の角度から検証する構造を持っています。
① 逆ソクラテス
② アンスポーツマンライク
③ 二月下旬から三月上旬
④ 思い出す手
⑤ 逆ワシントン
どの物語でも、教師・親・周囲の大人が“知識”や“経験”を根拠に振る舞い、その行動を“正しい”と信じ切っている一方で、子どもの素朴な疑問がその正しさにほころびを生じさせる――そこにこそ、“逆ソクラテス”の痛快さがあります。
大人は“分かっているつもり”なだけで、じつは狭い視野や偏見に支配されているかもしれない。そうした主題が五つの物語を貫き、読者は各作品で大人の盲信や思い込みが崩れる瞬間を目撃するたびに、爽やかな衝撃を受けるわけです。
「逆ソクラテス」――表題作が示す象徴:勉強ができるかどうかで生徒を見下す教師への反撃
表題作の「逆ソクラテス」は、本作品集のコンセプトを端的に示すような物語です。主人公である小学生の「僕」は、担任教師・松本先生が成績の良い子ばかりを優遇し、勉強が苦手な子を軽んじる態度に大きな違和感を抱きます。
通常なら、先生の指導に反抗するなんてリスクの高い行動かもしれませんが、子どもたちは“問いかけ”や策略を用いて、教師が抱える思い込みを揺さぶり、最終的にはその“優越感”を崩していく。ここには、まさに“ソクラテスの問答法”を逆に適用するような鮮やかさが感じられます。
大人が「自分は教える側だから正しい」と信じ込んでいるとき、子どもが論理的に指摘を重ねることで先生自身が無知に気づく可能性がある。そういった場面に読者はスカッとすると同時に、「いつの間にか、当たり前だと思っている基準で人を差別していないか?」と自らを省みるきっかけにもなります。
「アンスポーツマンライク」――ルールを守ることと勝利のための戦術、どちらが本当の正義?
続く「アンスポーツマンライク」のテーマは、“スポーツの世界にもグレーゾーンはある”という逆説です。主人公が見る限り、クラスメイトの少年は相手チームを“ばれないように”傷つけたり、ルールの盲点を利用したりとズルい戦法を駆使しています。しかし、物語が進むにつれ、その行動にもある程度の理由や背景があることが判明し、一概に卑怯とも言えなくなる。
ここで問われるのは、「スポーツマンシップ」や「正々堂々」と呼ばれる概念が本当に絶対的な正義かどうか、という疑問です。最初は“ルール守らない奴は悪”と決めつけていた主人公や読者も、実は試合での駆け引きは単純な善悪では割り切れないと気づき始めるわけです。
この話を通じて伊坂幸太郎が描くのは、「ルール=公平」と盲信する大人たちへの疑念。“フェア”とは何なのか、“正々堂々”とはどこまでの行為を指すのかを改めて揺るがしてくれます。スポーツという舞台を借りて人間関係や社会の理想と現実を映し出す手法がとても巧みで、読者の視点を大きく広げてくれるでしょう。
「二月下旬から三月上旬」――大人のえこひいきや都合に翻弄される子どもたちの抵抗
「二月下旬から三月上旬」は、大人社会で当たり前に行われるえこひいきや立場による態度の差が、クラスという小さな世界でも色濃く表れている姿を描きます。教師がある子には優しく、ある子には厳しい。ある親が特別扱いを受ける一方で、別の親は冷遇される。子どもたちはそこに“納得いかない”思いを抱きながらも、黙らざるを得ない状況を嫌というほど見せつけられるのです。
しかし、子どもたちは“やっぱりこれって変だ”という気持ちを持ち続け、何かしら行動を起こそうとします。けれども現実には、大人の都合の方が圧倒的に強く、子どもの声など簡単には認められないのが悲しいところ。しかしこの短編では、そんな理不尽の中でも「自分たちにできること」を試行錯誤し、わずかでも成果を上げる展開がちらりと描かれ、読者に“小さな希望”を与えます。
読んでいると「大人の世界はどこか歪んでいるけど、逆らうのは難しい……」と感じる反面、“それでも声を上げたり、工夫したりする意味”を教えてくれるエピソードに仕上がっています。「無駄かもしれないけど、理不尽を理不尽と言うことが大切だ」というメッセージがしみじみと胸に響くでしょう。
「思い出す手」――記憶の不確かさがもたらす混乱と“真実”への問い
「思い出す手」では、“自分が覚えている記憶”が本当に正しいのかをめぐる疑念が焦点となります。ある事件を回想する主人公が、その出来事を語るたびに周囲との証言が食い違い、自身の思い出が実は勘違いや改ざんを含んでいるのではないかと気づいていくのです。
これは社会全体にも言えることで、事件捜査や裁判における証言の曖昧さ、あるいは日常のトラブルで「私はこう見た」「いや、違う」と主張が対立する理由の一端を鮮烈に示唆します。子どもが主観的な記憶を“絶対正しい”と思いこんでいたことが、実はそうではなかったかもしれない……
そんなズレに直面する物語は、私たちにも「自分の記憶が確かだと思いこんでいないか?」という問いを突きつけます。大人ほど“自分の記憶や認識は正しい”と断言しがちですが、実際には子ども以上に記憶の歪みに囚われているかもしれません。まさに“当たり前の自信”を揺さぶる一編と言えるでしょう。
「逆ワシントン」――嘘をつくのは絶対に悪いこと? “正直”の限界を深くえぐる
最後の「逆ワシントン」は、“嘘をつかない”ことが本当に常に正しいのかを主題としています。ワシントンの“桜の木”エピソードは“正直さ”の象徴として語られる有名な逸話ですが、本編では子どもたちがこの逸話を逆手に取り、「嘘をつくことは必ず悪なのか?」と議論を進めます。
場合によっては“誰かを守るための嘘”があるかもしれないし、“正直であればいいという単純な問題”ではないかもしれない――そう気づいた子どもたちは、むしろ大人の方が“嘘はいけない”と単純に言いつつ、自分の都合のためには嘘を使っている現実に気づく。
この短編は、「誠実と嘘」という道徳観の根幹を揺さぶりつつ、人間関係において“絶対に正直を貫く”ことが必ずしも善でないという、微妙なバランスを巧みに描いています。読後には「どんな嘘も悪」という考えがいかに単純か、そして“嘘をつく勇気”や“黙ってあげる優しさ”が時に必要なのだと再認識するでしょう。
所感
当たり前を疑い、勇気をもって行動する子どもの姿が生む爽快感
『逆ソクラテス』を通して強く感じられるのは、“子どもたちが小さな違和感を見逃さず、大人の矛盾に対して知恵と度胸で挑む”様子がもたらす爽快感です。大人からすれば「自分が正しい」と当然のように思い込むことも、子どもから見ると全く理にかなっていなかったり不公平だったりする。
そんな理不尽に気づいた子どもが実際に声を上げ、時には巧妙な仕掛けで“大人を自覚させる”という展開こそ、本書が読者に与える快い驚き。ただ訴えるだけではなく、時には問答法や小さな策略を駆使して教師や親を論破したり恥をかかせたりする場面に、伊坂幸太郎特有のユーモアが光っていて、一編ごとに読後のスッキリ感があります。
大人の側が無自覚に振るう“正義”こそ危うい――子どもの無垢な目が教える真理
一方、本書を読み終えると「大人は本当に、無意識に偏見や思い込みに支配されていることが多いな……」と反省させられます。子どものうちはむしろ柔軟で、何か変だと思ったら“どうして?”と素直に聞ける。しかし大人になると、知識や常識を振りかざし、疑うことを忘れがちという暗い現実が浮き彫りになるのです。
各短編において、子どもが感じる“これって本当にいいの?”という疑問は、時に世界をもう一度見直すきっかけをくれます。まさに、ソクラテスの“無知の知”とは「自分は知らないと認める」ことから始まるはずが、大人になるにつれ逆行してしまう。ゆえに、子どもの鋭い問いが“大人の確信”を崩す瞬間が、本作全体の最大の魅力と言えるでしょう。
まとめ
“当たり前”とされる価値観を疑う勇気をくれる短編集――“子どもが大人を導く”姿が新鮮
『逆ソクラテス』は、五つの短編それぞれが「子どもが大人の思い込みを暴く」構図を鮮やかに描き、結果的に大人が持つ権威や先入観がくつがえされる瞬間を描くところが特筆すべき点です。伊坂幸太郎らしい軽妙な文章とユーモアが全編にあふれ、読後には心地よい驚きと共に「自分も大人として反省すべきことがあるのでは……」という気づきを与えます。
各話のエンディングは、しばしば子どもたちの小さな勝利や大人の自覚をもって締めくくられ、読者は“理不尽に立ち向かう勇気”の尊さや、“世の中が少しだけ良くなったかもしれない希望”を感じられるでしょう。一方で、そんな一時の逆転があっても、大人社会が一気に変わるわけではないからこそ、“疑う姿勢を持ち続ける”意義を噛み締める読後感が残ります。
伊坂流の爽やかな逆転劇と、思考を促すメッセージが共存
本作は“社会に隠れた理不尽”を強く描きながらも、暗鬱さより伊坂作品特有のポジティブなエネルギーを享受できるのが魅力。子どもがのびのびと疑問をぶつけ、大人がタジタジになる場面を読むときの痛快感は、読者の心を晴れやかにしてくれます。
また、五編を通して「大人の論理」や「既存の価値観」がいかに柔軟性を欠いているかを問題提起することで、「本当に正しいことは何なのか?」を改めて考えさせられます。ソクラテスの名を冠した作品らしく、“疑問を持つことこそ真理への近道”であるというメッセージが一貫しているのです。
「常識を疑うようになる」という副題の通り、読者は日常生活で“これが当然”と思っていたことを少し立ち止まって見直す機会を得られるでしょう。伊坂幸太郎ファンはもちろん、社会のルールにモヤモヤを感じている人や、教育や親子関係に関心がある人にとっても多くの示唆が得られるはずです。
ぜひ一度読んでみて、“子どもが大人の思い込みを撃ち抜く”快感と、“当たり前って何だろう?”と問う刺激を味わってみてはいかがでしょうか。
コメント