著者:朝井 リョウ
出版社:新潮社
はじめに
『正欲』は、現代社会における倫理観と個人の欲望の対立を描いた深い問題提起を行う作品です。登場人物たちはそれぞれ異なる背景や欲望を持ちながら、社会の枠組みや規範に縛られながらも、自らの「正しい欲望」を模索していきます。物語は、欲望の正当性や社会的に受け入れられるものとそうでないものの境界線がどれほど曖昧であるかを問いかけ、現代社会における価値観の矛盾を浮き彫りにします。
あらすじ
本書では、横浜の寺井啓喜、広島の寝具販売員桐生夏月、食品メーカー社員佐々木佳道、大学生神戸八重子、そして同じく大学生の諸橋大也が、各々の欲望と向き合いながら生きる姿が描かれます。彼らの「正しい欲望」と「社会的な欲望」の間で葛藤し、最終的にはどのように自己解放を目指すのかが物語の大きなテーマです。
啓喜は検事として仕事をこなしているものの、息子の泰希が不登校でYouTuberを目指すことに悩みます。夏月と佳道は、共通の性的嗜好を抱えながら生きており、その秘密を隠し続けています。八重子は「多様性」を掲げて大学祭を企画するが、過去のトラウマが彼女の価値観に影響を与え、大也は同じ嗜好を抱えながらも孤独に苦しんでいます。
登場人物
寺井啓喜(横浜の検事)
啓喜は検事として日々法務に従事しており、家庭内では息子の不登校問題に悩みます。彼は社会規範に基づく「正しい道」を強く信じており、息子が社会との接点を断つことに強い不安を感じています。しかし、息子が抱える孤独と欲求に向き合おうとするものの、うまくいかず家族間の溝は深まるばかりです。
桐生夏月(広島の寝具販売員)
夏月は性的嗜好に関する秘密を抱え、社会での受け入れられないことに恐れを抱いています。彼女の「水」に対するフェティシズムは、社会的には異常視され、長年その欲望を隠して生きています。中学生時代に佐々木佳道との間に特別な思い出があり、それが彼女にとって唯一「受け入れられた」瞬間でした。
佐々木佳道(食品メーカー社員)
佳道は「水」に対するフェティシズムを持つものの、広島から関東に転校し、その欲望を隠しながら日常を送っています。夏月との再会を望んでおり、心の中で彼女との記憶を大切にしています。彼もまた社会の枠に馴染めず、孤独を感じています。
神戸八重子(大学生)
八重子は「多様性」を掲げた大学祭の実行委員として活動していますが、家庭の影響で異性に対して警戒心を抱いています。彼女の兄のロリコン的な性嗜好が、彼女自身にも性に対する恐れを生じさせ、性別や欲望に対する矛盾を抱えて生きています。
諸橋大也(大学生)
大也は自分の欲望を周囲に隠し、孤独に苦しみながら生きる大学生です。彼も「水」に対するフェティシズムを抱えており、夏月や佳道とのつながりを求めるものの、その秘密を守るために周囲との距離を取っています。
物語の展開
物語は登場人物たちの欲望とそれに対する社会的な対立が交差しながら進行します。夏月と佳道は、再会してお互いの秘密を共有し、「偽装夫婦」として生きることを選びます。啓喜は仕事と家庭の板挟みになり、夏月との対立を通じて自らの信念が揺さぶられることになります。八重子と大也もまた、欲望と社会的価値観の葛藤に直面します。
所感
『正欲』を読んで、現代社会における欲望とその正当性について深く考えさせられました。社会が「正しい」とする欲望と、個人の欲望がどれほど異なるか、またそれがどれほど恣意的に定義されるかに驚きました。登場人物たちが抱える「社会に受け入れられない欲望」を見て、現代社会での生きづらさや孤独感がどれほど大きいかを痛感しました。
欲望は社会によって規定され、そこには大きな矛盾があることを感じました。登場人物たちは、自分の欲望を他人に合わせて隠さざるを得ない苦しみを抱えていますが、それを解放することがどれほど勇気を要するかも描かれています。本書は、欲望が社会的規範にどれほど縛られているかを浮き彫りにし、読者に深い思索を促します。
まとめ
『正欲』は、現代社会における倫理観や欲望、そして「多様性」の限界を深く掘り下げた作品です。登場人物たちが抱える欲望と社会の規範との対立を描く中で、「正しい欲望」とは何か、また「多様性」をどのように受け入れるべきかを考えさせられました。本書を通じて、欲望と社会の規範が交錯する中で、私たちがどのように欲望と向き合うべきかを問い直す機会となります。
「正しい欲望」を模索し続ける登場人物たちを通して、私たち自身が欲望をどう受け入れ、どう表現すべきかを考えるきっかけを提供してくれる一冊です。現代社会で生きる私たちにとって、この問題は決して他人事ではなく、自分自身にとって重要なテーマであることを再認識させてくれました。
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